槻之屋神楽とは
日本最古の歴史書「古事記」「日本書紀」に記されているスサノオノミコトが八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治なされた斐伊川の上流にしてこの地の住人である稲田姫(イナタヒメ)と結婚され、その子孫である出雲大社で有名な大国命(オオクニヌシノミコト)によって国が平定され「国譲」によって大和朝廷に受け継がれ、又大蛇の尾から出でし剣は後の「草薙の剣」として天皇継承の三種の神器となっている。
この地は日本建国の源の伝説の地であり、そこに生まれ継承されてきた神楽である。


槻之屋神楽の特徴
素朴な古典神楽であり、舞、舞所の切飾り等に他の出雲神楽には無いものがあり、修験神楽にも通じる要素を多分に残している事から、原出雲神楽を知る重要な手がかりを残している。
よって昭和 37 年に島根県指定無形民俗文化財に指定され、昭和 53 年には文化財保護法による「記録作成の措置を講すべき文化財」として選択されている。

特に「亥日祭」は他の社中にない舞であり、又「八戸」(八岐大蛇退治)は多くの社中で舞われているものの当地域がその伝説の地であり、その伝説にふさわしい雰囲気と迫力、さらに優美で幽玄な舞として評されている。

奉祭は今は失われた旧出雲神楽の古曲そのままであると言われ、近在の社中とは異なる。笛は普通七穴であるが六穴であり低音である。「切目」の切目拍子、「須佐遷宮」「天神」の楽の舞の拍子は当社中独特な曲目である。


演目
槻之屋神楽の演目は、「国譲 → 八戸 → 亥日祭 → 山神祭新式 → 田村 → 天神 → 五行 → 茅ノ輪 → 日御碕」となっている。

■国譲
石見で「鹿島」と呼ぶのは、国譲りを迫る武甕槌神の神を祭る鹿島神宮に由来する。天照大神の命を受けて、経津主神と武甕槌神が豊葦原水穂国(日本国土)を天照大神の子孫に譲るよう、出雲国の大国主命に談判に行く。大国主は、御子の事代主神にも相談の上、従順に国を譲り渡し、みずからは杵築大社に鎮まることに同意する。ところが、大国主の第二の御子の建御名方神はこれに承服せず、経津主神に力比べの戦いを挑む。しかしどうにもかなわずついに降参し、国議りは成しとげられるのである。

■八戸
高天原でもろもろの罪を犯して追いやられた素盞鳴尊は、一時新羅を経て出雲に入り簸川を上っていくと、そこで足名椎・手名椎・櫛稲田姫の三人が泣き悲しんでいる姿に出会う。訳を聞くと、頭が八つ、尾が八つ、長さは八谷にまたがるほどの八岐大蛇が年々現われて媛をひとりずつとっていく、今年は最後に残ったこの稲田姫が取られることになったと嘆いて告げた。そこで素盞鳴尊はこれを退治することを約束して、酒を用意させる。やがて大蛇が現われ、これと格闘の末最後は退治して、稲田姫をめとる。

■亥日祭
「亥日祭」は他所にはない珍しい演目である。初めに2人の巫女による連れ舞があり、終わるとそこへ主水司が現われ出る。そして釜を設け(三叉がその意味)、米を注ぎ入れる所作をする。主水司とは、律令官制の宮内省で供御の水や粥などのことを司どった役職名をいう。釜の儀を終えて主水司が舞座後方に下がると、杵を持った鬼が2鬼現われ出る。そしてこの2鬼は鼓を臼代わりにして餅つきの所作を始め、「亥の日に当たりし今日なれば、あら面白の杵の音、我も五穀の舞をなす」と謡い舞い、それに応じて巫女も舞う。

■山神祭新式
この「山神祭」は、他所ではたいてい神能として扱われているが、ここでは七座の最後7番目にあてられている。榊を採りに山に分け入った柴叟。そこへその山の主である山の神が現われ、柴叟は追い掛けられる。しまいには捕まえられてしまうのだが、柴叟が「春日明神なり」と正体を明かすと、山の神はその場に伏してひざまずく。そして榊の返礼に叙を授けられた山の神は、最後に悪切の剣舞で四方を鎮め固める。

■田村
槻之屋神楽で観客から絶大な人気を誇るのがこの「田村」。平安時代初期に征夷大将軍となった坂上田村麻呂が勅命を受け、伊勢国の鈴鹿山に立てこもって悪業をなす鬼神を探し出す。途中土地の里人から。鬼丸という悪人が旅の僧侶の計略にかかって親に斬り殺され、その魂晩がこの世にとどまり悪業をなすのだと鬼人の素性を聞き出す、里人も一緒になって田村の鬼神退治を手伝うのだが、おどおどしたり田村の足を引っ張ったりと、観客を笑いの渦中に巻き込んでくれる。この里人、仁多郡では「かんたろう」の愛称で親しまれている。

■天神
藤原時平の議言で筑紫へ左遷された菅原道真は、自分には罪はないことを天皇に訴えるため都へ上ることを決意する。まず大納言(時平)が出て舞い、郎党も付き従う。次いで菅丞(天神)が登場。時平大臣の諌言により筑紫に流された無念を晴らすため、都へ上がって伴大納言を討とうと延べ舞う。天神方は伴大納言を見つけ、声を掛ける。大納言は初めは身を偽るがやがて正体を明かし、天神と伴大納言、従者同士の戦いとなる。伴大納言たちは切り従えられ、天神方が勝利する。天神は嬉しきの舞をして終わる。

■五行
国常立王の第一〜第四王子たちは各々四季と四方を所領としていた。そこへ末子の五郎王子の使いが来て所領を分けるように求めるが拒絶され、さらに五郎の王子みずから現われて兄の四神に所領分けを求めるが拒絶される。怒った五郎は兄たちに合戦を挑み大乱闘となる。そこへ所務分けの翁が現われ領地を東南西北と中央に分け、季節を春夏秋冬に各々土用を設けてこれを五郎に与え、五神はうまく収まって舞じまいする。陰陽五行説に基づくこの舞は、その問答にこそ重きがあり、舞所の地霊を鎮める意義があったと考えられる。

■茅ノ輪
「備後の国風土記」逸文に記される蘇民将来・巨旦将来兄弟の話をもとに、明治年間に海潮村須我に鎮座する須我神社の神職らが中心となって創作したものといわれる。初めに将来兄弟が出て舞い、そこへ素盞鳴尊が出てくる。尊はまず弟の巨旦将来に一夜の宿をたのむが断られ、蘇民将来に頼むと蘇民は快く承知する。そこで尊は蘇氏に茅の輪を授け、悪魔払いの舞を舞って入る。やがて禍津日神という厄神が出て、まず巨旦に挑みこれを倒すが、次に挑みかかった蘇民には茅の輪によって撃退される。

■日御碕
この演目は出雲神楽で盛んである。大社町日御碕神社の祭神を主人公にしている。異国から来襲した彦張(牟久利ともいう)を、日御碕明神が弓矢をもって迎え討つ。一度は矢に倒れた彦張も粘って戦うが、ついに討ち取られる。出雲神楽では最後の一段として舞われることが多く、かつては明け方に舞ったことから「夜明けの彦張」の呼び名がある。能舞に鼕を使わないことが多い出雲神楽でもこの舞には使い、ほかの能舞とはやや扱いが異なる。石見・隠岐でも「十羅」の名で存在する。